沢田研二さんのさいたまスーパーアリーナ公演中止理由は、実は観客数ではなく原発反対運動によるものかもしれないそうです。沢田研二さんの公演中止理由といわれる原発反対運動とは、どのようなものだったのか、また沢田研二さんの過去の活動や経歴などについても調べてみました。
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沢田研二の公演中止は原発による?真相を調査!
(出典:https://www.hochi.co.jp)
2018年10月17日に、『ジュリー』こと沢田研二さんが、全国ツアー・さいたまスーパーアリーナ公演を開演直前に中止するという騒動がありました。沢田研二さんは一夜明けた18日に、横浜市内の自宅近くで報道陣の取材に応じ中止理由について「観客が9000人と聞いていたのに7000人しか入っていなかった」と説明しました。公演中止の判断は自身で決断したそうで「責任は僕にあります」と謝罪しました。
14年前にも沢田研二さんは、観客が少ないことで公演中止とドタキャンしているんですね!2004年10月、茨城・水戸の県民文化センターで開催予定の公演を、観客が予定の1700人の半分にも満たないことを理由に中止しています。今回今回公式サイトでは「お客様には大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」とメッセージを記載されていました。
直前リハーサルの時に客席をつぶしたブロックが目立ったため、沢田研二さんは「なんだ、これは!」との思いから、公演中止を決意したようです。沢田さんの主張としては「客席がスカスカの状態でやるというのは酷。僕にだって意地がある。」と苦い表情で「もちろん僕の実力不足です」と反省しました。
そして所属事務所や主催者に対して「もっと頑張って客席を埋めてほしかった」と要望した上で「ファンには申し訳ないことをした」と謝罪したんですね。沢田さんは17日午後5時開演の2時間ほど前まで主催者側と話し合いをし、主催者からは土下座で開催を懇願されたのですが、頑として断ったそうです。
今回の全国ツアーは沢田さん70歳の古希を記念したもので、2018年7月6日の東京・日本武道館から2019年1月21日の同所まで、全66公演という力のこもったものです。中止後、初の公演となる10月21日の大阪狭山市文化会館公演は、予定どおり行うとの事。SNSでは「プロとしてどうなのか」「ファンを蔑ろにしすぎ」などと批判的な意見が相次いでいます。
また、芸能界からも様々な人がコメントしていて、もともと沢田研二さんを発掘した内田裕也さんは「頑張ってほしい」とエールを送り、グループサウンズ時代の戦友・堺正章さんやTOKIOの国分太一さんは、客席がスカスカだからという公演中止理由に共感しました。歌手の歌手の中尾ミエさんは「贅沢いうな!本当に意地があるなら痩せろ、素はいい男なんだから」と愛のムチを、ビートたけしさんは沢田さんの写真を見て「伊藤博文?」とコメントしました。
と、ここまでなら沢田研二さんは、今どき珍しいファンに媚びないアーティストなんだなぁ、ということなんですが、公演中止の真相がどうやら、違うところにあるようなんです。沢田研二さんはここ数年、反原発の歌を作ったり原発反対署名運動をしているのですが、さいたまスーパーアリーナは公式サイトで、公演とは直接関係のない活動を規制しています。
その点で沢田さんと折り合いがつかなかったことが、公演中止につながったと見られているワケですね。
沢田研二は原発反対運動派?問題点を調べてみた!
沢田研二さんの最近のコンサートは、往年のヒット曲はほとんど歌わずに、自身で作った脱原発(原発反対)ソングを歌い、原発反対の署名運動を行う事が通例となっていたようです。ですので、今回の会場となったさいたまスーパーアリーナは、そのような原発反対の署名運動などを会場内で行う事を認めていなかったという事になりますね。
結局、沢田さん側と会場側の事前の打ち合わせが出来ていなかった、という事になるのでしょうね(><)ではなぜ、さいたまスーパーアリーナでは原発反対の署名運動をやってはいけないのでしょうか?
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沢田研二のコンサート中止には東電株が関係?
さいたまスーパーアリーナの株の30%を東電が保有しているそうです。東京電力は原発を再稼働させたいでしょうし、その反対運動を自分が株を持つ会場で行われるのはナンセンスでしょうから。今回、原発反対の署名運動を行う団体がロビーにいたのではないでしょうか。そのため、公演中止の流れになったと思われます。
沢田研二は政治的パッションが強い?
「とくダネ」に出演した社会学者の古市憲寿さんは、友達が沢田研二さんの横浜アリーナでのコンサートに行った話を紹介していました。その時は、1万人以上入れる会場が超満員で政治色の強い歌が、やはり多かったとのことです。ですから横浜アリーナでは、原発反対の署名運動は可能だった可能だったという事になりますね。
そして古市さんは沢田さんについて「政治的パッションの強い方。2019年あたり出馬するかも」と発言。司会の小倉さんに「そうなの?」と問われると「全然聞いてないですけど、政治に関心があると伺っているから、それぐらいの熱量で」と答えていました。
沢田研二(ジュリー)プロフィール
(出典:https://favor-j.com)
ビートたけしさんは今回の公演中止について「ジジイになると、自分もそうだがワガママになるんだよ」とコメントしていましたが、沢田研二さんは人気絶頂の20代前半から、コンサートでは客席の熱狂する女性ファンに向かって「歌を聴け!」と説教するのは日常茶飯事でした。そんな沢田研二さんのプロフィールを追ってみました。
出生名 澤田 研二
愛称 ジュリー(女優のジュリーアンドリュースのファンだったことから命名)
出身地 京都府京都市
生年月日 1948年6月25日
学歴 京都府立鴨沂高等学校中退
沢田研二さんがボーカルを務めるバンド『ファニーズ』は大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演している時に、ロック歌手の内田裕也さんからも声をかけられ『ザ・タイガース』として、1967年に芸能界デビューしました。沢田さんはティーンを中心に熱狂的な人気を誇りますが、グループサウンズブームは約4年で終焉を迎え、ザ・タイガースも1971年に解散します。
その後、萩原健一さんとのツインボーカルによるロックバンド『PYG』での活動を経て、1971年11月1日から沢田研二さんはソロでの活動を開始します。1973年『危険なふたり』1974年『追憶』1975年『時の過ぎゆくままに』と毎年大ヒット曲を連発しますが、レコード大賞を受賞することは出来ませんでした。
そんな時期、1975年と1976年の2度にわたって新幹線で乗客に因縁をつけられた沢田研二さんは、暴行事件を起こしてしまいます(ライバル事務所が仕組んだものだったともいわれています)。2度目の暴行事件後の1976年末に1ヶ月の芸能活動謹慎を行った沢田研二さんでしたが、ここからが本当のスター街道をばく進することとなります!
復帰後2曲目となる『勝手にしやがれ』で1977年日本レコード大賞ほか賞レースを総ナメ。
『サムライ』『ダーリング』『ヤマトより愛をこめて』『LOVE抱きしめたい』『カサブランカダンディ』『OH!ギャル』『TOKIO』『ストリッパー』『6番目のユウウツ』など、30年も時代を先取ったビジュアルと誰も真似の出来ない歌唱パフォーマンスで、常に脚光を浴び続けました。
1980年代後半からはその人気にも陰りが見え始め、事務所の独立や田中裕子さんとの略奪婚があり、歌の方も商業ベースではなく「自分の歌いたいものを歌う」独自路線へとどんどん傾倒していき、それに伴って華麗だったビジュアル面も変化していきました。
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沢田研二の公演中止は原発による?反対運動の為についてまとめ
沢田研二さんのファンには“渋ジュリ”(現在の沢田さん)派と“若ジュリ”(全盛時の沢田さん)派がいるみたいですね(もちろん“両方”というファンも)。今回の公演中止では、これほど様々な角度から取り上げられるアーティストは、やはり日本ではなかなかいませんし、スゴいことなんだなと実感しました!
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