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萩原健一の若い頃がヤバい?嫁について調べてみた!

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萩原健一さんは若い頃から相当カッコよく、女性にもモテていたようです。嫁も何人も変わったみたいですね。そんな気になる萩原健一さんの若い頃からのモテモテぶりや芸能活動、そして歴代の嫁などについて調べてみました。

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萩原健一の若い頃ザテンプターズ加入時代は?少年時代からデビュー解散について調べてみた!

(出典:https://www.pinterest.jp)

1967年のグループサウンズ(GS)の「ザ・テンプターズ」ボーカルとしてデビューした萩原健一さんですが、元々「ザ・テンプターズ」は1965年に埼玉県大宮市で、田中俊夫さん、高久昇さん、松崎由治さんのメンバーで結成された、高校生のアマチュアバンドでした。大宮市のダンスホールを中心に活動をしていた当時の「ザ・テンプターズ」は、最初は女性ボーカルだったそうです。

ところがこの女性ボーカルのが体調不良の為、バンドの演奏だけで出演していたある日、坊主頭の中学生が飛び入り参加し、ビートルズの「マネー」を歌いました。この少年こそが、若い頃(少年時代)の萩原健一さんだったのです。ですがあまりに歌が下手で、松崎さんは唖然としたのだとか・・・

それでも萩原健一さんは熱心に頼み込み、メンバーとして加入を許されたのだそうです。そうして1967年、「ザ・テンプターズ」はすでに当時スターであったGSの「スパイダーズ」の田邊昭知さんが設立した、スパイダクション(現在の田辺エージェンシー)にスカウトされたことにより、「ザ・スパイダースの弟分バンド」として、デビューを果たします。

萩原健一さんはこの時まだ16歳でしたが、プロとして専念するため高校を辞めたそうで、若い頃の萩原さんの本気度が伺えますね。そしてデビュー曲「忘れ得ぬ君」は好調な売上を記録し、第二弾シングル「神様おねがい」で大ブレイクするのです。続く「エメラルドの伝説」も大ヒット、「ザ・テンプターズ」はGSのスターとして人気を不動のものとしました。

「ザ・テンプターズ」は、当時日本ではほとんど無名だった、イギリスのロックバンド「ローリング・ストーンズ」の影響を強く受けていて、少しダークな感じの曲が持ち味だったそうです。アイドルでありつつも不良っぽさが見え隠れする、そのスタイルこそが若い頃の萩原さんの魅力と言えますね。

しかしGS自体の流行が去り、「ザ・テンプターズ」も次第に人気が低迷し、1970年末に解散します。解散コンサートをする訳でももなく、なんとなく寂しい終わり方だったそうです。そして萩原健一さんは「ザ・テンプターズ」の解散後は、同じくGSの代表格バンドだった「ザ・タイガース」解散後の若い頃の沢田研二さんや岸部一徳さんたちと「PYG(ピッグ)」というバンドで活動しましたが、音楽活動よりも、次第に映画監督として傾倒していったのです。

沢田研二さんについての記事はこちら→沢田研二の公演中止は原発による?反対運動の為か調査!

萩原健一は俳優として映画「青春の蹉跌」や強烈なインパクトのドラマで活躍!

(出典:https://middle-edge.jp)

そんな萩原健一さんに転機が訪れたのは1972年、映画「約束」の制作現場に助監督として参加していた時に、主演俳優が降板してしまい萩原さんが代役として抜擢されたのです。岸恵子さんと共演した、この悲しい恋愛映画は大ヒットを記録し、名作として今でも語り継がれている映画のひとつとなりました。

このように若い頃の萩原健一さんは、俳優としてその後もテレビドラマ「太陽にほえろ!」でのマカロニ刑事役で、またまた大ブレイク。1972年12月には音楽活動を停止、「PYG」は事実上解散となり萩原さんは、俳優業に専念することとなったのでした。さらに萩原さんは俳優としての才能を開花させ、映画「青春の蹉跌」、テレビドラマ「前略おふくろ様」「傷だらけの天使」など次々と出演し、主演俳優としての地位を固めていきます。

その後も俳優としての活動は順調だった萩原健一さん、その私生活は波乱に満ちたものだったのでした。

萩原健一は三度の交通事故や脅迫事件で逮捕歴があった?

萩原健一さんはこれまでに、三度の交通事故を起こしていたようです。最初は1984年、「酒気帯び運転」で人身事故を起こし「業務上過失傷害」で逮捕。二度目は2004年、萩原さんの車が対向車線へとはみ出していたことにより、バイクと正面衝突。再び「業務上過失致傷罪」で現行犯逮捕されています。

さらに三度目は2011年、Uターンしようとした萩原さんの車が後ろから来たタクシーと衝突。萩原さんの後方確認が不十分だったとのことです。幸い、いずれの事故も怪我人はなかったそうなので、まだしも良かった方なのかもしれません。ただお酒を飲んでの運転は重大な犯罪であることに変わりはないのですが・・・

萩原健一さんは他にも2004年には、主演映画「透光の樹」で、監督・スタッフ・共演者への暴言、暴行を繰り返したことで降板させられています。そして前払い分の出演料半額の返還を求められましたが、これを拒否したのです。そのうえ、途中降板にも関わらず残りの出演料1050万円も騙しとろうと、担当プロデューサーの携帯電話の留守電に、

警視庁、国税局、山口組、住吉、熱海の若頭が全部協力してくれまして、「やったろうじゃないか」と言ってます。必ずやっつけますから。ちゃんと契約通り払ってください。

というような、脅迫のメッセージを残したと言うのです。ですので、製作者側から「恐喝未遂」で告訴され萩原さんは逮捕されました。「懲役1年6ヶ月、執行猶予3年」の有罪判決で芸能活動を休止せざるを得なくなります。その後復帰した萩原さんですが、ほとんど映画やドラマには出演していなかったようです。

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萩原健一は母性本能をくすぐるので女性にモテモテ?

とにかく萩原健一さんは「強烈に母性本能をくすぐる」タイプのようです。大人であるのに大人になりきれず、どこかアンニュイな子供っぽさがあり正直な性格で、自分に嘘をつけない。「ザ・テンプターズ」時代に初めて飛行機に乗った時には、靴を脱いで『お邪魔します』と入っていったそうです。

また1990年には雑誌「ホットドッグプレス」で、お笑い系モテ男の代表の志村けんさんと共に、無言の色気で口説く系モテ男代表として紹介されていました。ですので、萩原さんは女性に対しても好きになれば気持ちを隠せずに突っ走ります。結婚歴も1度や2度ではありませんでした。

萩原健一の現在の嫁(妻)は冨田リカor岸恵子?結婚離婚遍歴や子供について調査!

(出典:https://helpcurenow.org)

萩原健一さんの一人目の嫁は、1975年に結婚したモデルの小泉一十三(こいずみ ひとみ)さんです。娘さんも一人誕生していますが、1978年に離婚してしまいます。

(出典:https://columbia.jp)

二人目の嫁は、1980年に結婚し1984年に離婚した女優のいしだあゆみさん。自叙伝「ショーケン」の中では、未入籍で事実婚だったと明かしていましたが、2008年「週刊新潮」では一転して、「未入籍はウソだった」といしださんと入籍していた事実を語っています。

三人目の嫁は、1996年に結婚したヘアメイクを担当の女性で、2006年に離婚。この離婚原因は、萩原さんの「人身事故」や「恐喝未遂事件」などだったようです。そして嫁ではないのですが、萩原さんは女優の倍賞美津子さんと不倫関係になっています。二人は、1985年、映画「恋文」での共演で知り合うと、お互い惹かれあったようですが当時、倍賞さんはプロレスラーのアントニオ猪木さんの嫁でした。

(出典:https://rubese.net)

倍賞さんは、1971年に猪木さんと結婚した当初はラブラブだったのですが、その後猪木さんの浮気や借金などで「仮面夫婦」と呼ばれるほど、仲が冷え込んでおり、そんな時に萩原さんとの出会ったようです。当初は、この映画で倍賞さんが萩原さんとラブシーンを演じたことに猪木さんは激怒しましたが、やがて二人の関係を知り、1988年に倍賞さんと猪木さんは離婚することになります。

(出典:https://sleepyluna.exblog.jp)

晴れて倍賞さんと萩原さんは同棲を始めましたが、萩原さんが女優の石田えりさんと新たに関係を持ってしまい、倍賞さんとも破局してしまいます。(倍賞さんはその後ずっと独身を貫いています)

(出典:http://urbietorbi.hatenablog.com)

萩原健一さんの現在の嫁は、2011年に結婚したモデルの冨田リカさんです。二人の出会いは、2009年に東京の青山で行われた女性月刊誌の対談で、もともと萩原さんのファンだった冨田さんが、この対談を熱望したのだそうです。萩原さんは、自叙伝「ショーケン」の中で、自身が母親が不倫した末に生まれた生い立ちや、薬物に手を出したり多くの女性と関係したことなどを、赤裸々に語っています。

萩原健一は現在シンガポール在住で芸能活動していた?2019年3月26日死去で死因はGIST(消化管間質腫瘍)

萩原健一さんは、嫁の冨田リカさんと結婚後はそれまで住んでいた横浜から都内へ転居したといわれていますが、シンガポールに在住して日本のように自分の事が知られている環境ではない土地で、ゆっくり過ごしていたともいわれています。自身の強い希望で病名を公表することなく、2011年頃から闘病していた萩原さん、2019年3月26日午前10時30分、「GIST(消化管間質腫瘍)」により都内の病院で68歳で帰らぬ人となりました。

2019年3月18日に、内田裕也さんが亡くなった時に、所属事務所を通じてコメントを発表した矢先の事でした。葬儀は生前の萩原さんの意思で、家族のみで営まれ「お別れ会」なども行わないそうです。

内田裕也さんの記事はこちら→内田裕也と樹木希林の若い頃の画像がヤバい?子供や収入源について調べてみた!

萩原健一(ショーケン)の年齢や出身・身長本名は?

(出典:https://mainichi.jp)

萩原健一さんのプロフィールを振り返りましょう。

本名:萩原 敬三(はぎわら けいぞう)
生年月日:1950年7月26日
出身地:埼玉県北足立郡与野町(現・さいたま市中央区)
身長:174センチ、
血液型:O型、
学歴:聖橋中学校・高等学校(現在は廃校)、

ニックネームである「ショーケン」は、デビュー前の不良仲間「ダイケン」「チューケン」「ショーケン」から、そのまま取ったそうです。

萩原健一の若い頃がヤバい?嫁についてまとめ

また一人、昭和の大スター・名俳優が亡くなられました。抜群のビジュアルと強烈な個性で70年代の芸能界を席巻した萩原健一さん、若い頃の『ジェットコースターのような』人生から晩年は嫁の冨田リカさんと共に穏やかに過ごしていたようですね。どうか安らかに天国へと旅立ってほしいです。

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